2011/02/16 雑誌:月刊悠+(はるかプラス)

月刊 悠+(はるかプラス) 
2011年3月号に特集記事
(2011年02月16日発売、税込800円)

コーナー「元気人」にて特集
※Web版の記事はこちらに掲載


重なり合ういくつもの音色

埼玉県蕨市の文化ホール・くるるの演奏会場は観客で埋め尽くされている。智内さんがステージに立った。
「あまり知られていない曲もあるかと思います。演奏が終わったら私が立ち上がりますので、そこで拍手をお願いします(笑)」
端正な顔立ちと背筋がスッと伸びた凛とした姿。そこからは想像できないユーモアあふれるトークに、観客は“智内ワールド”にすぐに引き込まれていった。
サンサーンスやシューベルト、バッハなど、なじみ深い作曲家のメロディーが智内さんの左手一つで奏でられる。目をつぶって聴くと、とても左手だけで弾いているとは思えないほど豊かな音色。いくつもの音が重なり合い広がってゆく。
最後の曲は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したロシアの作曲家、スクリャービンの前奏曲と夜想曲。スクリャービンは、中枢神経系の障害によって運動障害を起こすジストニアにかかり、ピアニストの道をあきらめ作曲に専念するようになった経歴をもつ。
「前奏曲と夜想曲は、『左手のための2つの小品』に収められた曲で、私にとって、等身大で演奏できる得意の曲です」
スクリャービンと同様、ジストニアを発症した智内さんもまた、新たな音楽家の道を歩み出していた。
自分の人生を重ねるようなもの悲しくも優美な音色に、観客席は静まりかえった。続きはこちら>>

左手でしか表現できない道を歩み始めて

ドイツの名門、ハノーファー音楽大学に留学して2年目の2001年。コンクールに向けて練習を積んでいた智内さんは、右手に違和感を感じていた。
「親指が思うように動かなくなったのです。それでも無意識に他の指でカバーし、練習を続けていました」
右手の症状を押さえ込み酷使し続けた結果、半年後にはドレミも弾けないほど症状は悪化。診断の結果、局所性ジストニアを発症していることがわかった。
大学を休学し、リハビリ生活が始まった。通常意識することがない筋肉の細かい動きを一つひとつ意識し、思った通りに動かせるようにしていく。一流のピアニストを目指して競い合ってきた仲間のもとに再び戻ることを信じて根気のいるリハビリを続けた結果、日常生活には不自由しないまでに回復。しかし、ピアニストとしての復帰は難しかった。
「以前のレベルに戻ることは難しいとわかったのです」
ピアノを辞めようかと考えていたとき、スクリャービンの前奏曲と夜想曲に出会った。弾いた途端、智内さんは衝撃を受けた。
「両手で弾いていた感覚では想像できなかった、全く違う世界の存在に気づいたのです」
左手しかないのではなく、左手でしか表現できない新しい世界。智内さんは、試行錯誤を繰り返しながら独学で演奏技術を身につけていった。広い鍵盤を下から上まで無理なく弾くために、体の向きをあらかじめ左側に傾け、左右に動くときの体のねじれを最小限にし動かしやすくした。 ペダルの踏み方にも工夫をした。 伴奏とメロディーの二つのパートを左手だけで演奏するため、そのままでは音が途切れてしまう。ペダルを踏むことで、二つのパートがなだらかにつながるようにした。
さらに、脱力を心がけた。絶えず左手を使うため、一歩間違うと手を壊してしまう。
「例えばフォルテでは、力を入れるのではなく、上から下に力を抜いて手を落下させるようにします。酔っぱらいの力持ちみたいな感覚ですかねえ(笑)」
智内さんは左手の演奏で最優秀成績を収めて大学を卒業し、06年には広島交響楽団と共演。ソロ演奏会の依頼が相次いだことから、07年に帰国し、左手のピアニストとして本格的に演奏活動を始めた。続きはこちら>>

左手でしか表現できない道を歩み始めて

ドイツの名門、ハノーファー音楽大学に留学して2年目の2001年。コンクールに向けて練習を積んでいた智内さんは、右手に違和感を感じていた。
「親指が思うように動かなくなったのです。それでも無意識に他の指でカバーし、練習を続けていました」
右手の症状を押さえ込み酷使し続けた結果、半年後にはドレミも弾けないほど症状は悪化。診断の結果、局所性ジストニアを発症していることがわかった。
大学を休学し、リハビリ生活が始まった。通常意識することがない筋肉の細かい動きを一つひとつ意識し、思った通りに動かせるようにしていく。一流のピアニストを目指して競い合ってきた仲間のもとに再び戻ることを信じて根気のいるリハビリを続けた結果、日常生活には不自由しないまでに回復。しかし、ピアニストとしての復帰は難しかった。
「以前のレベルに戻ることは難しいとわかったのです」
ピアノを辞めようかと考えていたとき、スクリャービンの前奏曲と夜想曲に出会った。弾いた途端、智内さんは衝撃を受けた。
「両手で弾いていた感覚では想像できなかった、全く違う世界の存在に気づいたのです」
左手しかないのではなく、左手でしか表現できない新しい世界。智内さんは、試行錯誤を繰り返しながら独学で演奏技術を身につけていった。広い鍵盤を下から上まで無理なく弾くために、体の向きをあらかじめ左側に傾け、左右に動くときの体のねじれを最小限にし動かしやすくした。 ペダルの踏み方にも工夫をした。 伴奏とメロディーの二つのパートを左手だけで演奏するため、そのままでは音が途切れてしまう。ペダルを踏むことで、二つのパートがなだらかにつながるようにした。
さらに、脱力を心がけた。絶えず左手を使うため、一歩間違うと手を壊してしまう。
「例えばフォルテでは、力を入れるのではなく、上から下に力を抜いて手を落下させるようにします。酔っぱらいの力持ちみたいな感覚ですかねえ(笑)」
智内さんは左手の演奏で最優秀成績を収めて大学を卒業し、06年には広島交響楽団と共演。ソロ演奏会の依頼が相次いだことから、07年に帰国し、左手のピアニストとして本格的に演奏活動を始めた。続きはこちら>>

大切なのは、数ではなく音の質

それにしても、なぜ左手だけで豊かな音色を紡ぎ出すことができるのだろうか。
「一度に出せる音が限られることで、一つひとつの音が重みをもってきます。大切なのは、数ではなく音の質。無駄がないシンプルな音色だからこそ、ピアニストの本質が出るのです。指の数が半分になったからといって、音楽の質も半分になるわけではありません。左手だけの演奏は、弱点に見えるかもしれませんが、むしろ弱点を活かすことで最大の魅力に変えていく。弱点をうまく活かせたとき、個性になるんです」
智内さんは、これまで左手の楽曲を探し続けてきた。現在わかっているだけでも300曲以上あるという。
探していく中で、19~20世紀にかけて起こった戦争で右手に障害をもったピアニストたちと周りの音楽家たちの活動により、多くの左手の作品が生み出されたことにも感銘を受けた。
「平和な時代が訪れ、左手のピアニストが少なくなり、弾き手を失った作品たちはいつしか埋もれてしまいました。そうした作品たちを再び世に送り出したいのです」
演奏だけでなく、楽譜の収集や楽曲の演奏資料の作成、演奏方法の確立をまとめた“左手のアーカイブプロジェクト”。智内さんの見つけた新しい世界はまだまだ広がり続ける。

弱点を活かすことで 最大の魅力に変えていく。 そのとき弱点は個性になるんです

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