産経新聞:記事掲載

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産経新聞:ホタル鑑賞コンサート 松山、鎮守の杜で
2011.6.7 02:17
 鎮守の杜(もり)でホタルの光とコンサートを楽しむイベント「奥久谷ほたるの夕べ」が5日、松山市久谷町の葛掛(かづらがけ)五社神社で行われ、家族連れなどでにぎわった。

 12回目となる今年は境内にグランドピアノを設置、“左手のピアニスト”で知られる大阪府在住の智内威雄(ちないたけお)さん(34)が、シューベルトのアヴェ・マリアなどのクラシック音楽を演奏。うっそうとした杜の闇に蛍の光とピアノの調べが解け合い、幻想的な雰囲気を醸し出した。

 参道では地元住民が屋台を並べ、イカやアユのくし焼きなどを威勢良く販売。家族4人で今治市から訪れた40代の会社員は「自然と音楽が共鳴するコンサートに、今年もすっかり酔いました」と満足そうだった。

読売新聞夕刊に記事掲載:4月14日,21日,28日,5月5日

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一病息災:ジストニア(1)留学先 右手の指に異変

3月11日、東北地方などを巨大地震と大津波が襲った。その翌日、兵庫県西宮市の甲東教会で、祈りのピアノを奏でた。

 右手は太ももの上に置いたまま。左手だけが、独立した生き物のようになめらかに鍵盤の上を踊る。

 この教会で初めて演奏したのは、コンサート活動を始めて間もない4年前。阪神大震災の追悼チャリティー演奏会だった。

 以来、ずっと支えてくれた人たちが、この日も教会を埋めた。彼らはみな、阪神大震災で被災した経験がある。家族を失った人もいる。絶望のふちから立ち上がり、深化した智内のピアノに、共感を抱く人たちだ。

 教会に響くバッハ、スクリャービン、サンサーンス。一音ごとに被災地再生の願いをこめた。演奏の途中、様々な記憶が脳裏を巡った。

 幼少期から、ピアノの英才教育を受けた。東京音楽大を卒業し、ドイツのハノーバー音楽大に留学。国際コンクールで入賞を重ね、前途を嘱望された。

 右手に異変が表れたのは、留学2年目の2001年。親指を動かそうとすると、筋肉に過剰な力が入り、自由が利かなくなった。

 ほかの指でカバーしながらレッスンを続けたが、間もなく、人さし指にも症状が表れた。半年後には、右手を動かそうとするとすべての指が硬直して内側に折れ曲がった。ドレミさえも弾けなくなった。

(2011年4月14日 読売新聞)


一病息災:ジストニア(2)大学休学 リハビリに専念

 留学先のドイツ・ハノーバー音楽大には、音楽家の病気を専門に扱う医療機関があった。そこでジストニアと診断された。

 ジストニアは、腕や首、顔、背中などの筋肉に、自分の意思とは関係なく硬直が起こる病気だ。脳の神経回路の機能異常で起こると考えられ、ピアニストや理容師など、同じ動作を繰り返す職業で起こりやすい。

 ピアニストの場合、ピアノを弾こうとすると、指や手首が硬直して曲がり、演奏ができなくなる。発症にはストレスも関係すると考えられている。

 硬直する筋肉にボツリヌス毒素を注射し、緩める治療が一般的だが、腕には使いにくく完治も望みにくい。「治したい」。その一心で大学を休学し、音楽家向けのリハビリを受けた。

 手指の硬直は、前腕の筋肉の一部が意に反して硬直することで、引き起こされる。そこで、ピアノを弾く動作を繰り返しながら、硬直する筋肉を確認する。

 続いて、原因の筋肉を意識しながら、そこが硬直しない弾き方をあみ出していく。「手や指が重みで自然に落ちるように鍵盤を押し下げると、過剰な硬直が抑えられる」と分かった。ピアノを弾けるようになるまで、2年かかった。

 だが、待っていたのは思いも寄らぬ絶望だった。「ピアノは弾けても、プロのレベルにはほど遠い状態」だったのだ。

(2011年4月21日 読売新聞)


2011/04/08 毎日新聞阪神版

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東日本大震災:「被災ピアノ」祈り込め 左手のピアニスト、復興の思い一つ /兵庫

 ◇芸術文化センター
 阪神大震災を乗り越えたピアノを使った演奏会が7日、震災からの復興シンボルとして建てられた県立芸術文化センター(西宮市)で開かれた。東日本大震災の被災者は無料招待され、約300人の観客が復興への祈りを込めた音色に耳を傾けた。

 演奏会は、神経系の病気で左手だけの演奏活動をしているピアニスト、智内威雄(ちないたけお)さん(34)=大阪府箕面市=が主催。95年の阪神大震災の時、神戸市東灘区のピアノ工房で“被災”したグランドピアノとともにステージに立った。智内さんは冒頭、ミサ曲の「アベ・マリア」を弾き、会場は静かな鎮魂の祈りに包まれた。その後、バイオリニストらとともに、シュミットのピアノ五重奏などを披露した。

 街頭で募金活動をしているという大阪府交野市の小学6年、有元湧音(ゆね)君(11)は「僕も家でピアノを習っているけれど、被災した人たちは生活もままならないと思う。少しでも役に立ちたい」と話した。演奏会の収益は、震災の義援金として送られる。【矢島弓枝】

〔阪神版〕
毎日新聞 2011年4月8日 地方版

2011/04/07 毎日新聞大阪朝刊

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演奏会:左手のピアニスト智内さん、東日本大震災被災者を招待--きょう兵庫・西宮で

 ◇「復興の音色」で安らぎ
 7日午後7時から、兵庫県立芸術文化センター(同県西宮市)で開かれる左手のピアニスト智内威雄(ちないたけお)さん(34)=大阪府箕面市=の演奏会で、東日本大震災の被災者を入場無料で招待することになった。演奏されるのは阪神大震災を乗り越えたピアノ。智内さんは「被災した方々の心に、ほんのひとときでも安らぎの音色を届けたい」と話している。

 演奏会で使われるグランドピアノは、1925年製造のニューヨーク・スタインウェイで、95年の阪神大震災当時、神戸市東灘区のピアノ修理工房「日本ピアノサービス」のレッスン室にあった。震災で工房は全壊したが、ピアノは奇跡的に無事で、全国で「復興の音色」を奏でている。

 智内さんは、神経系の病気ジストニアのため右手が思い通りに動かせず、左手だけでピアノを演奏する。今回の演奏会は当初、アフガニスタンの教育支援団体に収益を寄付する予定だったが、東日本大震災の義援金にすることになった。東日本大震災の被災者は、演奏会の受け付けで申告すれば無料で入場できる。

 曲目はコルンゴルトの組曲など。一般2500円。問い合わせは、左手のアーカイブプロジェクト事務局(090・6047・3005)。【矢島弓枝】
毎日新聞 2011年4月7日 大阪朝刊

2011/02/16 雑誌:月刊悠+(はるかプラス)

月刊 悠+(はるかプラス) 
2011年3月号に特集記事
(2011年02月16日発売、税込800円)

コーナー「元気人」にて特集
※Web版の記事はこちらに掲載


重なり合ういくつもの音色

埼玉県蕨市の文化ホール・くるるの演奏会場は観客で埋め尽くされている。智内さんがステージに立った。
「あまり知られていない曲もあるかと思います。演奏が終わったら私が立ち上がりますので、そこで拍手をお願いします(笑)」
端正な顔立ちと背筋がスッと伸びた凛とした姿。そこからは想像できないユーモアあふれるトークに、観客は“智内ワールド”にすぐに引き込まれていった。
サンサーンスやシューベルト、バッハなど、なじみ深い作曲家のメロディーが智内さんの左手一つで奏でられる。目をつぶって聴くと、とても左手だけで弾いているとは思えないほど豊かな音色。いくつもの音が重なり合い広がってゆく。
最後の曲は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したロシアの作曲家、スクリャービンの前奏曲と夜想曲。スクリャービンは、中枢神経系の障害によって運動障害を起こすジストニアにかかり、ピアニストの道をあきらめ作曲に専念するようになった経歴をもつ。
「前奏曲と夜想曲は、『左手のための2つの小品』に収められた曲で、私にとって、等身大で演奏できる得意の曲です」
スクリャービンと同様、ジストニアを発症した智内さんもまた、新たな音楽家の道を歩み出していた。
自分の人生を重ねるようなもの悲しくも優美な音色に、観客席は静まりかえった。続きはこちら>>

左手でしか表現できない道を歩み始めて

ドイツの名門、ハノーファー音楽大学に留学して2年目の2001年。コンクールに向けて練習を積んでいた智内さんは、右手に違和感を感じていた。
「親指が思うように動かなくなったのです。それでも無意識に他の指でカバーし、練習を続けていました」
右手の症状を押さえ込み酷使し続けた結果、半年後にはドレミも弾けないほど症状は悪化。診断の結果、局所性ジストニアを発症していることがわかった。
大学を休学し、リハビリ生活が始まった。通常意識することがない筋肉の細かい動きを一つひとつ意識し、思った通りに動かせるようにしていく。一流のピアニストを目指して競い合ってきた仲間のもとに再び戻ることを信じて根気のいるリハビリを続けた結果、日常生活には不自由しないまでに回復。しかし、ピアニストとしての復帰は難しかった。
「以前のレベルに戻ることは難しいとわかったのです」
ピアノを辞めようかと考えていたとき、スクリャービンの前奏曲と夜想曲に出会った。弾いた途端、智内さんは衝撃を受けた。
「両手で弾いていた感覚では想像できなかった、全く違う世界の存在に気づいたのです」
左手しかないのではなく、左手でしか表現できない新しい世界。智内さんは、試行錯誤を繰り返しながら独学で演奏技術を身につけていった。広い鍵盤を下から上まで無理なく弾くために、体の向きをあらかじめ左側に傾け、左右に動くときの体のねじれを最小限にし動かしやすくした。 ペダルの踏み方にも工夫をした。 伴奏とメロディーの二つのパートを左手だけで演奏するため、そのままでは音が途切れてしまう。ペダルを踏むことで、二つのパートがなだらかにつながるようにした。
さらに、脱力を心がけた。絶えず左手を使うため、一歩間違うと手を壊してしまう。
「例えばフォルテでは、力を入れるのではなく、上から下に力を抜いて手を落下させるようにします。酔っぱらいの力持ちみたいな感覚ですかねえ(笑)」
智内さんは左手の演奏で最優秀成績を収めて大学を卒業し、06年には広島交響楽団と共演。ソロ演奏会の依頼が相次いだことから、07年に帰国し、左手のピアニストとして本格的に演奏活動を始めた。続きはこちら>>

左手でしか表現できない道を歩み始めて

ドイツの名門、ハノーファー音楽大学に留学して2年目の2001年。コンクールに向けて練習を積んでいた智内さんは、右手に違和感を感じていた。
「親指が思うように動かなくなったのです。それでも無意識に他の指でカバーし、練習を続けていました」
右手の症状を押さえ込み酷使し続けた結果、半年後にはドレミも弾けないほど症状は悪化。診断の結果、局所性ジストニアを発症していることがわかった。
大学を休学し、リハビリ生活が始まった。通常意識することがない筋肉の細かい動きを一つひとつ意識し、思った通りに動かせるようにしていく。一流のピアニストを目指して競い合ってきた仲間のもとに再び戻ることを信じて根気のいるリハビリを続けた結果、日常生活には不自由しないまでに回復。しかし、ピアニストとしての復帰は難しかった。
「以前のレベルに戻ることは難しいとわかったのです」
ピアノを辞めようかと考えていたとき、スクリャービンの前奏曲と夜想曲に出会った。弾いた途端、智内さんは衝撃を受けた。
「両手で弾いていた感覚では想像できなかった、全く違う世界の存在に気づいたのです」
左手しかないのではなく、左手でしか表現できない新しい世界。智内さんは、試行錯誤を繰り返しながら独学で演奏技術を身につけていった。広い鍵盤を下から上まで無理なく弾くために、体の向きをあらかじめ左側に傾け、左右に動くときの体のねじれを最小限にし動かしやすくした。 ペダルの踏み方にも工夫をした。 伴奏とメロディーの二つのパートを左手だけで演奏するため、そのままでは音が途切れてしまう。ペダルを踏むことで、二つのパートがなだらかにつながるようにした。
さらに、脱力を心がけた。絶えず左手を使うため、一歩間違うと手を壊してしまう。
「例えばフォルテでは、力を入れるのではなく、上から下に力を抜いて手を落下させるようにします。酔っぱらいの力持ちみたいな感覚ですかねえ(笑)」
智内さんは左手の演奏で最優秀成績を収めて大学を卒業し、06年には広島交響楽団と共演。ソロ演奏会の依頼が相次いだことから、07年に帰国し、左手のピアニストとして本格的に演奏活動を始めた。続きはこちら>>

大切なのは、数ではなく音の質

それにしても、なぜ左手だけで豊かな音色を紡ぎ出すことができるのだろうか。
「一度に出せる音が限られることで、一つひとつの音が重みをもってきます。大切なのは、数ではなく音の質。無駄がないシンプルな音色だからこそ、ピアニストの本質が出るのです。指の数が半分になったからといって、音楽の質も半分になるわけではありません。左手だけの演奏は、弱点に見えるかもしれませんが、むしろ弱点を活かすことで最大の魅力に変えていく。弱点をうまく活かせたとき、個性になるんです」
智内さんは、これまで左手の楽曲を探し続けてきた。現在わかっているだけでも300曲以上あるという。
探していく中で、19~20世紀にかけて起こった戦争で右手に障害をもったピアニストたちと周りの音楽家たちの活動により、多くの左手の作品が生み出されたことにも感銘を受けた。
「平和な時代が訪れ、左手のピアニストが少なくなり、弾き手を失った作品たちはいつしか埋もれてしまいました。そうした作品たちを再び世に送り出したいのです」
演奏だけでなく、楽譜の収集や楽曲の演奏資料の作成、演奏方法の確立をまとめた“左手のアーカイブプロジェクト”。智内さんの見つけた新しい世界はまだまだ広がり続ける。

弱点を活かすことで 最大の魅力に変えていく。 そのとき弱点は個性になるんです

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